作品 Works
32×41cm
紙にアクリル絵具と墨汁とオイルパステル
デジタルで交わされる語は
筆で書かかれた様な息づかいが伝わるだろうか。
世界の大半の語がまるで一点透視法のような圧倒的な
遠近法でやりとりされる。
まるで情報としてのイリュージョンだ。
手書きの語は時間と空間を越えた立体感生み出す。
視点の移動度を伴う遠近法なので、奥行きが一点の消失点に集中しない。
行間と余白に意識がしみ出るのだ。
日本の文字は外国の影響で、時代によって姿を変えて来た。
否定され黒く塗りつぶされたこともあった。
今更、日常に筆を使うべきなんて言わないが
日本語独特の遠近法を大切にしたい。
和紙に墨汁とアクリル絵具と鉛筆
32×41cm
和文字は姿を変えて残ってきた。
一般には昔の文字で読み書き出来なかったり、美しさを判断する作法が知られていない。
余白には有象無象が妖怪のように宿っている。これが現代の日本だろう。
トレーシングフィルムにアクリル絵具とソリッドマーカー
120×75cm(タペストリー仕立て)
薄く心もとないフィルムに漢字の「語」を沢山書いた。「語」はかき消されたり、はみ出したりする。だが生き続けている。それをつなぐ線は距離を生み出す。「語」が真実か嘘か、自由のためか支配されるためのものか。それを問う。世界が狭く感じられるようになった現代社会では、時間の長さも、空間の隔たりも、距離のとり方は個人次第だ。遠近法のイリュージョンに圧倒されない「語」を持って生きてゆきたい。
語には遠近法がある。それは平面での表現方法ではなく、これまで語がどう人と関わり、これからどんな距離をとるか考える方法だ。一種の文法とも言える。
遠近法の中でも一点透視法は、一目で平面に立体的なイリュージョンをもたらす。それは欧米の文化が日本の文化を容易に圧倒してきた様と重なる。例えば江戸時代に一点透視法が入ってくるまでは、視点の移動を伴う遠近法が用いられたがその伝統が大切に引き継がれることは無かった。浮世絵や前衛書のように欧米に影響を与えた日本独特の平面表現もあるが、圧倒した訳ではなく欧米の文化の美術史を進める一介の参考となっただけである。
戦後約20年後の昭和44年生まれの私は何の疑問も持たずに欧米に憧れ、日本は何もかもダサいと思っていた。10代で欧米を訪れた時、自分の醜さ、日本人である恥ずかしさを強く感じた。そして、何も思考出来ず信念も疑問も持たない薄っぺらな大人に成長した。それは一点透視法のイリュージョンの中で構築した世界だ。
時代は令和になった。戦後約80年だ。国際社会の文化の立場が変わってきた。欧米の圧倒的な力に変わりは無いが、ではあなたの国には何があるのか?という問いが世界を覆うようになってきた。思考停止で生きてきた私も考えた。「日本には書があるじゃないか」と。そうして私は戦後の前衛書を消化した抽象表現主義と接続して現代アートの書をかいている。感性の表出や吐露に終わりを告げて、社会をどうみているかを重視している点を近代からの進化としている。自分の思考を見つけるために。
57×67cm
トレーニングフィルムにアクリル絵具とソリッドマーカー
一点透視図法の遠近法という西洋由来のイリュージョンが、語の遠近法に変わってゆく。
語の価値観が急速に変わっている。