作品 Works
トレーシングフィルムにアクリル絵具とマーカー
24×12cm
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「那」を字母とする変体仮名の「な」。日本に渡って仮名になり、そして今では使われなくなった。表す音だけが残ったこの文字を書く。
2次元のその姿に時間と空間を越えた多次元の意識を見る。
そして、3次元の世界に生きる私に在り方を問い掛けてくる。
145.5×68.7cm
トレーシングフィルムにアクリル絵具とペイントマーカー
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「阿吽」は神聖な意識だ。「阿」はこの世の「始まり」、「吽」はこの世の「終わり」。始めの迷い苦しみを経て、この世はやがて一体化することを意味する。
発音する時「阿(あ)」は口を大きく開け「吽(うん)」は口を固く結ぶ。この作品では漢字の「阿吽」の口だけをかき、時空を意味するラインで結んだ。
時空は私達が生きる世界だ。それは幾多の命が生まれ死にゆく営みの場だ。さまざまな混乱や対立を経て、やがて調和にたどりつくのだろう。
そして同じことが、食べものが口から身体を通ってウン◯になることに重なる。
「この世の始まりと終り」のような壮大な時空も、食べものがウン◯になるようなありきたりなことにも神聖な意識が働いていると感じざるを得ない。
人が二つの眼球を通して視覚した情報は大脳に伝わり、この3次元の現実世界を鮮明に映し出す。この地球上で肉体を順応させるためにそう進化してきた。その結果、生きのびるために見えなくてもよいと肉体が判断して、人に見えなくなったモノもあるだろう。それは3次元を超えた高次元の意識なのではないか。46億年前に地球という星が物質として誕生するまえから存在していたものだ。
人類は20万年前に誕生したころにはまだあった能力を脳の奥につつみ込んで今に至るのだろう。そして現代の人と地球との関係を見て、大切な何かから目をそらしてきたと多くの人が気づいている。いや、多くの人が目をそらされてきたというべきか。
でも人は誰でも大脳に松果体をつつんでもっている。松果体は眼として退化した今でも光を感じて働いているのだから、高次元を感知する能力も残っているはずだ。その能力を更に開いて高次元の意識に目を向けてみてはどうだろう。きっと人類として生きる方針が見えてくるだろう。
文字は人の意識が集積してカタチとなって生まれる。この作品は文字で言葉を絵にすることで意識を具象化する試みだ。人の意識が3次元を超えて高次元に開放されることを願って。
15×15cm
和紙に墨汁
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くずして「くらし」と並べて書いている。が、やっているのは、文字の合間の余白を削り出しだ。
石膏デッサンは空気を描くものとされているが、それに似ている。紙に黒い影をかいて、それを取り巻く空間を明らかにする。結果、描く対象の石膏像が見えてくる。
「くらし」の合間にあるのはなんだろう。「くらし」はなんだか立て込んでいて、それしかなくなる。認識されない現象は存在しても静止したままだ。
たぶん、探して探して見つかるのは、ありきたりで言い古されたことなのだろう。だけど、それを探しだそう。